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超マニアックな 事情(せかい)   (キックボクシング編第2R) 追記版 沢村忠の『 真剣勝負 』

☆ 《追記》

『 2020年 令和2年 10月29日
キックボクシングの創始者
野口修 氏の評伝 『沢村忠に真空を飛ばせた男』
ー 昭和のプロモーター. 野口修 評伝 ー
細田昌志 著者 が、発売された。

これは、野口修氏が、ボクシング、キックボクシング、
芸能界関わったエピソード、
沢村忠、五木ひろし、作詞家山口洋子とのエピソードも含まれている。』


『 多くの関係者のコメントが、含まれていたが、
副題の名がある、沢村忠氏のコメント また、
一時期、キックボクシングで活躍した、
ボクシング世界フェザー級王者西城正三氏のコメントは、みつからなかった。 』

○ 『 沢村忠の真剣勝負について載っていたことが気になっていた。 』




①キック史上ムエタイ現役王者を(国内で)最初に破ったのはだれか?
 Α・沢村忠(目黒)

1969年昭和44年12月27日
後楽園ホール
東洋ライト級王者
 沢村忠(目黒)
    4RKO
タイ国J.ウェルター級王者プラィユー・スーパージ-        (タイ)
これをみて、えッ!沢村が?八○○試合じゃないの? ムエタイ現役王者を最初に破ったのは全日本キック、 目白ジムの、
藤原敏男じゃないの?デントラニー下した大手稔じゃないのか?
と思うかもしれない。


○ 試合内容
 2Rプラィユーの右ストレート・右フックで沢村は、カウント9のダウンを奪われるが、今度は逆に右フックでダウンを奪う4Rプラィユーの右ストレートを受けとめ右膝蹴りでKO勝ち(キックの鬼沢村忠伝説真空飛び膝蹴りの真実 筆者 加部究)より


*『追記』

こういう他人が、書いた伝記は、100%完璧でなく、

勿論事情があるにせよ、ウソ間違いは、ある。

今回は、ノンフィクション作家が、下調べ、インタビューコメント記載した。









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  1. 2020/12/01(火) 00:56:20|
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超マニアックな事情(せかい) 第4R (キックボクシング)岡尾国光...は、いずこ

 岡尾国光はいずこ その2 プラス番外編

前のブログから、何年かたち、このままだった。
岡尾国光氏の情報をえ得ようとしたが、なんせキックボクシング黎明期の近い選手だったため全盛期の情報がないにひとしい。

このままブログ削除も考えたがこんなブログにも『拍手40』(令和2年5月現在)を押していただいたのでブログの続編をつくろうとしたが、資料が乏しい。検索して色々調べたが、最近の昭和キック情報のブログは、すごい。某ブログなどは、
本当に昭和キックボクシング詳しく載っていたが、岡尾国光氏のことは、詳しく載っていなかった。

しかし© 2014 KICKBOXING ARCHIVES(現在閉鎖中)、昭和キックボクシングの戦績、当時のがあり岡尾国光氏の戦績があったので、そこから、引用させていただきました。

あと黒崎道場に関与した人からから岡尾氏の(本当に些細(ささい)であるが)少し情報が得た。
岡尾国光氏の現在などまったくわからないので
これを、期待しているひとはこのブログは、みないほうがいい。

まず、岡尾国光氏の主な戦績から紹介から

なおこの戦績表は© 2014 KICKBOXING ARCHIVES(現在閉鎖中)から引用しました。

1970年7月10日(東京・後楽園ホール)

第8試合ライト級3分5R
△岡尾国光
(目白ジム) ドロー
(採点不明) △玉城良光
(城東ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

*後の全日本ライト級王者玉城良光との初対決は、不覚の?ドロー


> 1970年試合結果 > 8月29日試合結果(栃木・小山ゆうえんちスケートセンター)
第7試合ライト級3分5R
○岡尾国光
(目白ジム) 5R1分35秒 KO ●チャナシング・シッチャロー
(タイ)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明
第8試合3分5R(契約体重不明)

*引き分け、盆戦が多いため、黒崎師範に、罵倒され、ハナタレ、小便垂れ流しで必死に、サンドバッグを叩き、挑んだ試合。

1970年12 月14日(東京・後楽園ホール)

第11試合3分5R(契約体重不明)
○岡尾国光
(目白ジム) 判定
(採点不明) ●玉城良光
(城東ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

*2度めの対戦は、判定勝ち!玉城に、勝っていたのですね..



岡村]1972年7月25日(東京・後楽園ホール)

第?試合3分5R(契約体重不明)
全日本ジュニアウェルター級1位
△岡尾国光
(目白ジム) ドロー
(採点不明) 全日本ライト級1位
△玉城良光
(城東ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明


*三度目の対戦!お互いトップランカー同士 引き分けで、一応岡尾国光氏の勝ち越し。


協会試合結果 > 1972年試合結果 > [協同]8月12日試合結果(東京・後楽園ホール)

第?試合全日本ジュニアウェルター級王座挑戦者決定戦3分5R
全日本ジュニアウェルター級1位
○岡尾国光
(目白ジム) 3R2分39秒 KO
(右回し蹴り) 全日本ジュニアウェルター級2位
●本岡武
(協同ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明
※勝者・岡尾が挑戦権獲得

☆しかし後にJr.ウェルター級王座が廃止(Jr.ライト級も同様)。同王者横山も、一階級上のウェルター王座に挑戦!
[岡村]1972年11月14日(東京・後楽園ホール)


第?試合3分5R(契約体重不明)
全日本ジュニアウェルター級1位
○岡尾国光
(目白ジム) 1R2分22秒 KO
(右フック) ●アティサック・ユーアイシー
(タイ)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明


*この試合は、黒崎建時氏が岡尾国光氏の試合で一番印象がのこる試合みたいである。

トップページ > 全日本キックボクシング協会 > 全日本キックボクシング協会試合結果 > 1973年試合結果 > [岡村]4月7日試合結果(東京・後楽園ホール)



第?試合全日本フェザー級王座決定戦3分5R
全日本フェザー級2位
○岡尾国光
(目白ジム) 3R2分47秒 KO
(ローキック) 全日本フェザー級1位
●江口和明
(杉並ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明
※勝者・岡尾が第2代王者となる。

☆元極真空手(目白)対日本拳法空手道(杉並)の

代理戦争!苦しい減量苦のまま 元NETバンタム級チャンピオン 江口にKO勝ち!


[岡村]1973年6月30日(東京・後楽園ホール)




第?試合トリプルメインイベント/全日本フェザー級タイトルマッチ3分5R
全日本フェザー級王者
○岡尾国光
(目白ジム) 判定
(採点不明) 全日本フェザー級2位
●バニー武田
(中京ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明
※第2代王者・岡尾が初防衛に成功。

島三雄、藤原敏男の『あの一戦』の第一試合だったのですね!

第?試合トリプルメインイベント/3分5R(契約体重不明)
全日本ライト級王者
○藤原敏男
(目白ジム) 判定 3-0
(採点不明) ラジャダムナンスタジアム認定ライト級6位
●リチデット・シンモロコット
(タイ)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

※〝あの名勝負〟は、セミファイナルでした。!藤原敏男氏が最も印象に残っている試合であり、師である黒崎建時師範も当時は、「この試合は藤原のベストファイトだ!」と云っていたほど激しい打撃戦だったらしい


第?試合トリプルメインイベント/3分5R(契約体重不明)
ラジャダムナンスタジアム認定フェザー級王者
○デッサクダ・ソンラム
(タイ)
58.7kg 1R1分44秒 KO
(右フック) WKBC世界フェザー級王者
●島三雄
(目白ジム)
58.1kg
レフェリー:不明、ジャッジ:不明
※デッサクダは契約体重を1.5lbs.超過した状態で試合に出場した。

『ムエタイの本』で島三雄氏はいちばん悔しい試合で、「この試合で格闘技人生は、終わった」と、語っている。

そのあとタイ人に、連敗、アピサックムンスリン戦で世界タイトル初防衛戦判定負け。 (WKBC世界王座陥落、その後、全階級王座自然消滅。)

交流戦 亀谷長保戦 1R KO負け (右のカウンターをもらう)

※これで緊張の糸が、切れたとか...


長江国政とは、一勝一敗一引き分け

「この頃の島三雄氏は自身のことを、下り坂と語っていた。」

その後タイでランカーと、引き分け、連敗して

ムエタイ現役王者と戦うことなく、プロボクサーに転身していく。


1973年試合結果 > [岡村]8月15日試合結果(三重・津市体育館)


第?試合3分5R(契約体重不明)
○チッタコーン・テッパクシン
(タイ) 判定
(採点不明) 全日本フェザー級王者
●岡尾国光
(目白ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

※この頃から?緊張感がぬけたのか?
苦悩が、始まる。

「最近燃えなくなった。」減量が、きつく、フェザー級での維持が難しくなってきたのか?

黒崎建時師範は(人間花が咲いているときに、やめるのがいい)と、岡尾国光氏の引退をさせる。





全日本キックボクシング協会 > 全日本キックボクシング協会試合結果 > 1973年試合結果 > [岡村]12月15日試合結果(東京・後楽園ホール)

第?試合特別試合3分5R(契約体重不明)
○岡尾国光
(目白ジム) 2R2分25秒 KO
(右ローキック) ●モントリー・チャロンパス
(タイ)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

* 岡尾国光氏の引退試合。
ゴング誌は、「岡尾国光突然の引退」で、誌面に載ってたいた。

「番外編」

『幻の試合』ラジャダムナンライト級王者

デントラニー ムンスリン戦

フェザー級初防衛あと、当時、タイの人気王者

ラジャダムナン認定ライト級王者

デントラニー ムンスリンとの一戦が後楽園ホールで行う予定だった。

しかし、黒崎建時師範の意向で中止になった。



[岡村]1977年10月8日(東京・後楽園ホール)

第?試合3分5R(契約体重不明)
タイ国ウェルター級9位
○ルンゲオ・ソーパシップ
(タイ) 判定
(採点不明) ●岡尾国光
(目白ジム)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

4年ぶりの復帰戦、なぜかランカーとの試合。

キツすぎたか?



1977年試合結果 > [岡村]11月14日試合結果(東京・日本武道館)


第5試合全米プロ空手世界ライト級タイトルマッチ2分9R
全米プロ空手世界ライト級王者
○ベニー・ユキーデ
(アメリカ)
65.8kg 4R1分33秒 KO
(右フック) ●岡尾国光
(目白ジム)
64.1kg
レフェリー:鈴木武仁、ジャッジ:不明
※初代王者・ユキーデが5度目の防衛に成功。

この試合失礼ながら、岡尾国光の代表する試合みたいになってしまった。

これが岡尾国光氏の最後の試合と思っていたひとが、多いのではないか?



1978年3月18日(東京・後楽園ホール)


第?試合3分5R(契約体重不明)
○シンサック・ソーシリパン
(タイ) 判定
(採点不明) ●岡尾国光
(目白道場)
レフェリー:不明、ジャッジ:不明

*これが岡尾国光の最後の試合

藤原敏男対モンサワンのラジャダムナンタイトル戦の前座試合だった。
☆新格闘術第1弾ポスターの下側の円枠に岡尾氏の写真が載っていました。



☆ 黒崎夫人美代子氏の言葉

故 美代子夫人は、岡尾国光対ベニーユキーデの一戦について ...

「岡尾クン 本当はもっと強かったんだけど.. あのとき社会人になっていたから..」

(岡尾氏は引退していて4年ブランクの試合だった。)

美代子夫人曰く

藤原敏男対ベニーユキーデ戦が行われなかった理由。

美代子夫人 『ユキーデが逃げちゃったから』

「あのときの藤原、タイのチャンピオン破って強かったから、セコンド付近で藤原の試合見て!
(あっ!これは勝てないなぁ)と思ったらしく、
※『藤原(日本で)待っていたのに飛行機で(米国に)かえっちゃった。』(負けると、自らのジム経営に影響があるでしょう!)

※『』の件について
藤原対ユキーデは、正式に決まってから、ユキーデが、逃げたわけでなく、
田園コロシアムでタイのランカープライュットに判定負けそのリターンマッチとして、
新格闘術世界Jr.ウェルター級王座決定戦で闘う予定だったが、試合直前、ケガまたは、発熱をおこし?
飛行機で帰ったとか、ムエタイに逃げたのか?

もう一説は、試合が、決まったのに、ユキーデは飛行機にのって逃亡したとか?
真相はわからない。

☆ユキーデ、引退した藤原氏から逃げる?

藤原敏男氏は以前全日本キックの興行で、全日本ライト級タイトルマッチ斉藤対石野戦後、リング上にて現役復帰宣言をした。

美代子夫人に尋ねると、

「藤原は(引退して)社会人なんだよ。」と答えた。


事情を話したが、沈黙した。

ベニーユキーデのエキビジョンマッチのことについて聞いたが、
同様だった。

藤原現役復活宣言について、
ネットでみると全日本キックは、藤原氏の試合を検討していたが、
藤原氏はお酒を飲み観戦したせいもあり

「酒がはいっていたから勘弁して」といって現役復活を白紙にした。

その後....

ロブカーマン対ドン.ナカヤ ニールセンの日本武道館興行にて、
WKA世界ウェルター級王者 ベニーユキーデ(当時現役)

元タイ国ラジャダムナンライト級王者 藤原敏男
(既に引退)

エキビジョンマッチが決定! ....したのだか、

藤原氏は、本気だったみたいだ、週4日の稽古を
ゴング格闘技、フルコンタクトKARATEが、取材していたのに,.

ユキーデは全日本キック側に無理を承知で、一説では、三千万円のファイトマネーを要求したとのこと。
わしら格闘技探検隊

フルコンタクト KARTE

☆もし、K-1の石井氏が、興味を持ってファイトマネー負担し、または試合をプロモートしたら、
ユキーデは、ファイトマネーをつり上げただろう。

☆ユキーデはボクシングでいえばウェルター級(約66キロ)の選手だった。(初来日当時でも)

当時新設プロカラテ団体WKAは、選手層が薄く、特に軽量級は人材は、少なく、クラスは3クラスぐらいだつたか?
ベビー級、ミドル級、ウェルター級
ベニーユキーデはウェルター級にランキングされていた。(Gスピリッツより)

ドラゴン魂誌にて藤原氏は、ユキーデは、ウェルター級で対戦するならラッシュを警戒するコメントなどをしていた。

結局ユキーデVS藤原戦は中止から白紙になり、

藤原氏は、復活宣言はせず、エキビジョン、または、藤原祭りにて、プロレス的な試合でファンを楽しませた。

対するユキーデは長年公式戦は行われずなぜか、〝WKA世界ウェルター級王者〟に君臨していた。

正道会館の田上とWKA世界ライトミドル級王座決定戦で対戦して何度の度ダウンを奪われたのに判定勝ちWKA世界ライトミドル級王者になる

試合後ユキーデは引退表明
田上もこの試合の後ベクターペーナー戦が最後になる。

美代子夫人は、「ユキーデは映画では、聖書を読んで..イメージがあるけど..」

礼儀、礼節のことに対しても

「わたしからみたらユキーデ可愛くないの!」

「だって藤原、日本で待っていたんだよ!だまって帰っちゃうのだから!」

☆故 美代子夫人の育て方。

「わたしは、(内弟子たちに、)しつけは、きびしくするの、ここがイヤならいつでも出ていってくれてもいい。はっきり言うから。」

『なぜこういうこと云うのかいうと、わたしの子供だったらイヤだから、言うのよッ!』

※(黒崎道場の人たちは、個人主義のイメージがあるかもしれないしかし、内弟子の人たちに、気遣い、やさしさ、生きるための我慢、強さのある社会人、人間になってほしい思いがある。)

『そのため、わたしは、ワルいオバサンになっているのッ!』

☆『今やれることは、悔いの残さないように一生懸命やりなさい。』

『ダメなら次の目標を頑張ればいい』


『やらないと、後で悔いが残り、人を恨んでしまうから...』


黒崎建時師範の言葉


「 岡尾は、カン がよかった。」

「アテサックという強い選手がいて、右のパンチで倒したんだ! 藤原だったらダメだろうなぁ。」


※おそらくアティサック UICのことと、推測される。

この試合は、ゴング誌にも、黒崎師範が岡尾氏の印象的な試合みたいである。

ちなみに、藤原氏はアティサックに判定勝ちしている。


ほかに、キックボクシングのパンチが、プロポクシングでの有効性などを語っていた。 (内容は不明。 忘れたとのことです(。(^^;)

「だから、ボクサーは、キック出身のボクサーのパンチをいやがるんだ!」

タノムサク シスボーへー 対 鬼塚勝也の

WBA世界Jr.バンタム級 (現 スーパーフライ級)
王座決定戦でのタノムサクの 左 の使い方をほめていた。

鬼塚の疑惑の判定勝ちは、批判していた。


☆ 黒崎師範が絶賛していた、タイ国で藤原敏男と闘ったムエタイ選手。

美代子夫人に藤原氏が最後に闘った最後のムエタイ王者は、誰ですか?と尋ねると、

「たしか、シープレーだっかしら?」

※シープレー キャステムソンポップ (タイ国 ラジャダムナンライト級1位 ルンピニーライト級王者)

78年 昭和53年3月後楽園ホールでラジャダムナンライト級王者になった、藤原氏と〝挑戦者〟として、同年6月ラジャダムナンで対戦。 シープレーの僅差の判定勝ち。
ラジャ、ルンピニーの2冠王、統一王者になる。

当時、ラジャとルンピニー王者同士の〝統一戦〟は、なかった。
格式のあるルンピニー王者が、〝挑戦者〟して、試合を組むことがまれにあるが、伝統あるラジャの王者が挑戦者として、まずない。


◇ちなみに藤原敏男が最後に闘ったムエタイ現役王者は 79年 昭和54年3月12日 ラジャダムナンでおこなわれた、〝世紀の一戦〟 タイ国ラジャダムナン Jr.ライト級王者 ナロンノイ ギャディバンデット戦 藤原氏僅差の判定負け。

話を元にもどして、、

美代子夫人が黒崎師範に尋ねると、

「昔のことだから忘れた。」と答えた。
その後「(藤原氏)がタイで闘ったアイツは強かったッ!パンチもキックも、ガンガンくるんだっ!」

藤原さん負けたのですか?と尋ねると?

黒崎師範は、首を何回もふった。
「アメリカに留学していた。」と答えた。

◇推測 おそらく当時、ラジャ、ルンピニー両ランカーだった
プッパートノイ ウオラウッド
2年のアメリカ留学を終えて、ムエタイに復帰、
ラジャダムナン側が、ルンピニーに、王者シープレー〝貸し出し〟させたため、義理をはたすため?なのか、昭和53年9月15日藤原敏男ルンピニーSに登場した。
プッパートノイ復帰後、現役ルンピニーJr.ライト級王者 ワンプライに判定勝ちしてから、藤原敏男戦をおこなったのだから、ピーク過ぎて実力が劣化したわけではないと思う。

この試合2度のダウンを奪った藤原氏の判定勝ち!
しかし、5ランド藤原氏がダウンを奪われる打撃戦。 『年間最高試合』になった。


☆黒崎師範の教え

「 人間でいちばん大事なことは何だと思う?」

精神、心、とか思うひとが多いかも知れない。

しかし黒崎師範のこたえは、自分の頭に指をさして.. 「ここだよ。」


「つまり『考えること、』動物は、ものを、たべちゃうと眠るだろう..人間は、ちがう。(考えて生きている)」

また、 「根性って(自分自身の胸を指でさして)みんな心とかいうでしょう?」

(自分自身のアタマヲ指で指して、)根性って頭の中にあるんだよ。笑いながら言った。

おそらく黒崎師範は、生きるため、目標を達成するため、荒行をなしとげるとき、どう考えてその手段にもってこなす重要性を知っているのだろう。

弟子たち練習生達にも、まず、テーマをあたえて考えさせる。

小柄な大沢昇氏には、小柄な自分に合った組手を考えさせた。

岡尾国光氏には、無制限にサンドバック叩き、なわとびをさせ、理不尽、非合理的?なことをノルマにさせることで、精神強化を鍛え、減量苦でもアタマをつかって、闘いここ一番強かった。

...まだ色々あるのだがこのブログのお題とはなれてしまうのでやめときます。

黒崎師範は岡尾氏の才能を評価していたのと同時になにかたらないのか?惜しんでいるように見えた。

格闘技雑誌で「岡尾が藤原くらい稽古していたなら、ムエタイ王者なんてよせつけさせなかったのに...」


岡尾氏は現在どうしているのだろう...

当時、雑誌『ゴング格闘技』のコラム内でキック版あの人は今?というコーナーがあり、元キックの選手の現在を紹介。
錦、フライングジャガー、樫尾茂、元キック王者が登場していた。

ページの隅の欄に、当時の編集長舟木氏が、岡尾氏に連絡願いをしていた。


2007年 2月 黒崎師範の妻美代子夫人がくも膜下出血で死去 享年64歳

告別式には、大沢昇、島三雄、藤原敏男らが故人を忍んでいた、
岡尾氏の姿はなかったそうで。

2020年 舟木氏のブログにて、黒崎建時師範の死去の発表がされていた。家族は死亡報告していないみたいで、
いつ頃亡くなったのかは不明。


岡尾氏は、この師の不幸を知っているのであろうか?

☆ 黒崎健時師範への思い
「百の努力した者と千努力した者の差は紙一重かもしれませんが、キックが格闘技である以上この紙一重の差が大切なんじゃないですか」



「先生は本当に素晴らしい人でした。
ある時期僕は、『先生のためなら死ねる』と思ったこともあります。

こんな気持ちになれるのは素晴らしいことじゃないですか

先生のおかげで今は家族に対してそういった気持ちが持つことができます。」

《1987年 4月15日 発行 マーシャルアーツ
No.14より》


岡尾国光はいずこ...

  1. 2020/05/15(金) 13:59:20|
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超マニアックな事情(せかい)「キックボクシング第3R」

 岡尾国光は、いずこ?

 昔キックの名門ジム
 目白ジムには、大沢昇、島三雄、藤原敏男という、昭和の代表するバカ強いチャピオンがいた。しかし、彼ら3人より、勘、身体能力がはるかにしのぐ選手がいた。
 第2代全日本フェザー級王者 岡尾国光

出身地、埼玉県葛飾群

生年月日 昭和22年 7月16日

1969年昭和44年7月26日プロデビュー

 1970年昭和45年?月?日 対玉城良光(城東)戦
    ドロー 
*5戦目の玉城は、新人離れの攻防 スポーツ紙は、〝格下〟の玉城相手に無様な試合をしたと、批判。
1970年昭和45年11月28日  後楽園ホール
  元NETウェルター級王者 対 増沢潔(山田)戦  2R 2分35秒 KO勝ち*NET ワールドキックボクシングが3月に僅か一年弱で放送禁止。東京12Cnに移籍後、6連続KO無人の荒野を突っ走る増沢、
(当時)20勝無敗9分けの岡尾 元NET対東京12cn
看板同士の闘い。

1R増沢は、左ストレートで岡尾の出鼻をくじく
 2Rカウンターをねらう増沢に、岡尾は、撹乱戦方にでた。 身をこごめ突っ込みざま右ショートストレートで増沢は、吹っ飛びダウン! 一度おきあがったものの、勝負は、ついた。ちなみに〝ゴング〟編集舟木昭太郎氏は、8-2 で増沢有利と信じていた。

1970年昭和45年?頃  
チャナッシング・シッチャロー (タイ) 戦
 5R1分35秒 KO勝ち

 エピソード
 ・当時、引き分け、凡戦の多いメイン岡尾、その師、黒崎健時氏に対する風当たりが強かった。
  
 黒崎師範は、岡尾に、
芝・愛宕山(あいとうざん?)85段の石段を百回走ることを課した。 すると、筋肉は硬くり、キックされたときのダメージは、大きい
しかし、キックしたとき相手に与えるダメージは、大きくなる。ちよっとでも気をぬいたら、私は岡尾を殴りとばした。
(黒崎健時著・必死の力必死の心第12版)
  岡尾は実に勘の良い選手であった。いわば天才肌のボクサーだと私は、今でも思っている。
  
 しかし喜びの一線を突き抜けたのは一回だけだった。チャナシング・シッチャローKOした試合の前の練習のときが、その一回である。
    
 19??昭和?年?月?日   後楽園ホール?
 アテサック・UIC (タイ)戦*?RKO勝ち(UICといのは、推定だがまちがいないとおもう。)
  
 *エピソード
 
 この一戦も引分けの多い壁をぶち破るため、師・黒崎健時氏は、岡尾に他の稽古は一切させず、二週間ぶっつけ右パンチ を打ち続けることを要求した。
 前に出て相手を倒す、ということに彼の全神経を集中させた。
 サンドバックの音が悪いと岡尾の背中を叩き!それと並行して、黒崎師範は、岡尾の甘えとおごりを叩き出すために、できるかぎりの罵詈雑言(ばりぞうごん) を浴びせて怒鳴り散らした。
 鼻水、ション便垂れ流しながら、稽古の苦しさ罵倒されたくやしさのすべてを、サンドバックにぶつけていた。 

 *この壁(凡戦判定勝ち、引分け)をやぶるのは、本人自身(岡尾)であるのだから、指導者(黒崎師範)が怒鳴っているだけでは、絶対成果を上げられなかった。(黒崎)

 *〝実際〟闘う選手自身「みずから望んで練習しなければものにならない。」それこそ「しごき」である。 本人自身がぶつかっている壁を苦痛とも思っていなかったらこの特訓は、出来なかった。

 *指導者は、選手の心の動きを手にとるように知っているべき。

 それで効果的な特訓も可能にして、選手を心身ともに鍛え、強くなることが難しいことでなくなるのだ。(黒崎)
「黒崎健時著必死の力必死の心第12版・途中省略」
 -NTV・東京12ch系-
統一キック王座決定戦

 1971年昭和46年7月6日 東京・後楽園ホール 
試合開始18時(観衆2600人)
 J.ウェルター級準決勝

横山剛 (協同) 戦
    判定負け 

  *初回横山は、長い足を利して回し蹴りを連発。 4R横山が右ロングフックを放つと、岡尾もさ左右フックをふるい応戦。 
 この回、手数の多い岡尾がリード。
 5R 横山は、持ち前の荒っぽさで、しゃにむに(死語?)パンチ前蹴りを放った。最終回ゴング寸前に放った前蹴りがものの見事に(岡尾の)ボディーに命中、この前蹴がポイントになり、(横山の)貴重な判定勝ちをおさめた。 続きを読む
  1. 2013/01/28(月) 19:55:54|
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超マニアっく たぶん知られていない 事実(キックボクシング)

①最初に敵地タイ国でムエタイ現役王者を破ったのは、だれか?

 Α・猪狩元秀(弘栄) 〝藤原敏男(目白)は2人目!〟

〝昭和51年〟 11月 2日 (現地時間)ルンピニーS 
全日本ウェルター級2位
 猪狩元秀
   3RKO
ルンピニーウェルター級7位・〝ラジャダムナンウェルター級王者〟
サタンファーソープラティープ
 
 迫力の気を放すサタンファーの右ミドルで猪狩は、ダウン。勝負を捨てない猪狩は、3R無意識の自然にふみこんだステップ右ストレートで、ダウンを奪いそのまま連打で、当時90戦82勝(20KO)一度もKO負けしていないサタンファーにKO勝ち

 ちなみに藤原敏男は翌年昭和52年 4月7日ラジャダムナンSにてラジャダムナンライト級王者チャランポン・ソータイに文句のつくようのない判定勝ち。
 余談だが藤原に破れたチャランポンは、「藤原に負けたことによりオレはもう、二度とラジャダムナンルンピニースタジアムには、たてないだろう・・
 しかしオレは、藤原に負けたことを恥だとおもわない。闘ったことに誇りに思う・・」 
 *当時ムエタイ王者が外国人に負けると、タイトル剥奪、ムエタイ界追放、
王者は、ノンタイトル戦でも、同じタイ人に三連敗すると、タイトル剥奪というきびしい掟があった。
 その後チャランポンは、剥奪まぬがれるも、モンサワンにうばわれる。
 猪狩に逆転負けしたサタンファーは、タイトル剥奪。大衆に非難浴び、猪狩のマッハパンチ恐怖症になる。

 ②なぜ藤原敏男が、ムエタイ現役王者を最初に破ったといわれているか?

 あくまで推測の域ですが 1990年代ゴング格闘技(当時、編集人舟木昭太郎氏現、UPPER代表)によく藤原敏男の記事は、掲載されていた。当時のキックの選手は、なかなかムエタイ(現役ランカーでなく、新人、元王者、ロートルクラス)に勝てなかった。〝その昔ムエタイ現役王者を破った男がいた〟偉業を讃える意で藤原の記事を掲載していた。
 フルコンタクトKARTE(当時、編集人山田英司氏)も、藤原敏男の技術や特集などしていた。
この二人は、藤原の師、黒崎健時氏と交流があり、特にゴン格の舟木氏は、プライベートでの付き合いもあり、どうしても〝藤原寄り〟になってしまってる。
ゴン格では、あの猪狩対サタンファーのルンピニーの逆転KO勝ちの試合は、
昭和52年4月7日藤原対チャランポンの後の昭和53年4月7日に記載されている。しかも猪狩のランキングが全日本一位、サタンファーは、同級一位になっている。 これは、明らかな誤りしばらくゴン格は、猪狩氏を誌に紹介するときは、後のムエタイ王者サタンファーを逆転KO勝ち・・としている。当時インターネットが発達してないからか、藤原とその師を気づかってか?猪狩氏の偉業を〝プチ隠ぺい〟していた。
 猪狩氏は、そのことでなにも抗議などしていなかったとおもわれる。
 猪狩氏は、サタンファー戦の後 52年6月17日ルンピニーウェルター級王者ピチットセンバチャン4RKO勝ち
 56年10月31日ラジャダムナンミドル級王者ヴィラサック・パョンカチョン3R1分33秒KO勝ち
(この試合は、足にサポーターをつけ、肘打ち、膝蹴り、首相撲、内股ロー、禁止の〝マーシャルアーツルール〟)「この試合こそ格闘技雑誌やインターネットでも殆ど紹介されていない〝超マニアックな試合〟
ゴン格、フルコンは、詳しく記載しなかった。
2000年代からピチット戦は、記載ビデオDVD映像化された。
 ちなみに猪狩氏の試合DVDでピチット戦以外8ミリビデオ映像というと、日本テレビ局がフィルム貸してくれなかったため。 
猪狩氏の継父の8ミリビデオ撮影テープを使用。 
舟木(談) 続きを読む
  1. 2013/01/25(金) 12:02:15|
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企業のリストラ集団ストーカー行為

企業は、お荷物社員をリストラ(自主退職)させるために集団ストーカー行為をおこない、相手を孤立化させて辞職させ、まだなおストーカー行為をおこない、相手を自殺させる というブログで幾度もみたが、現実にある。

 京都市五条通りカンザシ町にある。某警備会社は、集団ストーカー行為をおこない、相手を孤立化させて自主退職させている。
 大手警備会社セ○ム(カルト教団○価)を親会社を持つ、ひ孫下請け警備会社○リーS
 近年は、警備員の怠慢な仕事態度もあり、親会社への信用がうたがわれ、仕事現場がへり、人員削除のため、
 ①仕事現場激減を理由に仕事させない。
  それでも社員は、社会保険をはらわなければならない。これでは、社員は、生活できないため退職せざるおえない。
 (たまに遠方の警備にいかせる。放射線たっぷり、福島原発事故の現場など) それでも会社に残る警備員に対し某警備会社3Sの嫌がらせは、
②悪評流し、周りの信用なくし、孤立化させる。
 これは、集団ストーカーの一手段。親会社セコ○ (創○)をネットワークがあるから、いろいろな企業にリストラ社員の悪評ながせる。JR、コンビニ、本屋、ブック○フ イ○ン、 NTT ドコ○ 幅広い

 ③集団モノマネストーカー部隊をおくり、ほのめかす。
  バッグにナントカ学会がいるから、お荷物社員のクセの動作、音声を盗撮、盗聴、行動パターンを調べモノマネ部隊おくり、お荷物社員に〝ほのめかす〟 県外へ警備の仕事に出ても〝警備会社〟が(創○)にしらせて、集団ストーカーに嫌がらせさせる。
 ひどいときは、警備会社の事務員までがモノマネほのめかす。
 お荷物社員は、孤立化してしまい、退職せざるおえないようになる。
 
④しつこく集団ストーカー嫌がらせをおこない、会社は難癖つけて、 強引に退職させる。
  集団ストーカーモノマネほのめかし嫌がらせ行為は、プライベートでもおこなう、創○がからんでいるため、住所近隣の学会員にお荷物社員の〝悪評〟を流がす。これで集団ストーカーとすごすことになる。
 信じられないかもしれないが京○府警、滋○賀県警、JRもグル。
 お荷物社員の顔を別の身体写真に合成(帽子をかぶせ)〝尋ね人〟(指名手配ではない!)としてポスターをJR○崎駅、セブン○レブン にはり、情報収集、印象悪くする。
 現在JR○崎駅には、〝尋ね人〟ポスターははがされている。
それでも辞めない場合、 会社は、お荷物社員が仕事で、失敗したら、強引に自主退職させる。
  1. 2013/01/15(火) 05:22:30|
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